2016.01.28
「ノマド」という言葉を忘れる。
移動中や出先でこまめに仕事をすることが多くなった。これを書いている今もそうだ。
最近、異業種の方と話をしている時、こんなやり取りがあった。フリーランスなら何度も経験する会話だろう。
A氏「それにしても、パソコン一つでどこでも仕事できていいですね。なんていうんだっけ? あの、ちょっと前に流行った……」
私「えっと、なんでしたっけ? ノマド、ですか?」
A氏「そう、それ! いいよね。時間も自由に取れるもんねえ」
私「そうなんですよ。それがこの仕事のいいところです」
そうではない。そうではないが、とりあえず笑っておいた。
フリーランスになろうなんていう人間は、自分の能力と生命と時間を全力で「できるだけ他人の都合で強制や拘束をされないこと」に使っている人種だと私は思っている。
そこまでやって得た僅かばかりの自由をそれでも出先でまで仕事に消費するのなら、むしろそれは権利じゃなくて義務だ。
旅行先のホテルでチェックアウト待ちの長い行列を待つ間に、スマホでゲームをする人に混じって仕事を「しなければならない」。
朝8時に会社に「行かなくてはならない」のと同じ理由だが、それが苦痛でなく楽しい人もどこかにはいる。
幸い私も仕事が嫌いじゃないので、スマホでゲームするのと同じくらい何気なく、でも真剣に細かい仕事をしている。
投資で食べている人が傍からみたら適当にクリックしているようにしか見えないのに、実は神経をとがらせているのと同じように。
私はフリーランスになってから、これまで自分がフリーランスでよかったと心の底から実感したことはない。
むしろリスクしかないとつねづね憂鬱になっていたぐらいだ。
だが最近では、もうこれは運命だったとすら感じている。
大事な時に大切な人と一緒にいられるからだ。
たとえ自分がどんなに忙しく仕事をしていたとしても、同じ空間にいられる時間がたくさんあるというだけで充分だし、逆にフリーランスでなければかなり困難だった。
人生には何にもかえがたい短く大切な時間がある。一回かもしれないし、何回かあるのかもしれないが、少なくともその一回分を私は新幹線の座席や深夜のファミレスや他のあらゆる待ち時間の中で稼ぎ出すことができたのだ。
ただそれだけでフリーランスになった意味は充分にあった。
不安定だろうと寝不足だろうともはやどうでもいい。
「ノマド」という言葉はなんだかフラフラして頼りなさげだし、自分の生き方に陳腐な解説をつけられたようで嫌いだったが、それももうどうでもいい。
今、自分がフリーランスであることがただ嬉しい。
そういえばかなり前に、少々時間が自由になるメリットを無理やり楽しもうとして、仲間と数人で仕事をしながら全国各地の温泉宿を泊まり歩くというバカな計画を立てたことがあった。
もちろんそれは実現しなかったが、ついこの間、温泉旅館で早朝風呂上りにちょっと仕事をしてみたところ、宿で宿代を稼ぐというのは思ったよりずっと気持ちのいいものだった。
働き方なんてなんでもいい。大切なのはどう生きたいかという意思だけだ。
今週末もホテルで仕事だ。
2016年1月の最近あった良いこと――
ホテルのビュッフェでチョコレートとホワイトチョコが滝のように流れていた。
書いている人:アジナリスタ石井
東京都杉並区を拠点に活動しているフリーランスのWebデザイナー
特に知的・インテリ系のウェブデザインが得意。情報サイトの設計・制作が好き。